カナシミは何故必要なのか?インサイドヘッドを観てその役割が分かった!

こんにちは、マルです☆

この記事にはインサイドヘッドのネタバレがめちゃくちゃ含まれているので、ご注意下さい。

先日ようやく、念願のインサイドヘッドを観てきました。もうしょっぱなから最後まで、期待に違わぬ大傑作でした。ずっと感動しっぱなしです。

インサイドヘッドのテーマとして「カナシミは何故必要なのか?」というものがあります。今作はずっとこのテーマに沿って進みます。マルも観る前は確かに、カナシミがなぜ必要なのかと言われると分かりませんでした。不思議だったのです。ですが、今回インサイドヘッドを観て、その役割が分かりました。

今回は完全なネタバレ記事になりますので、インサイドヘッド鑑賞後に読む事をオススメします。
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カナシミはいらない感情か?

マルはインサイドヘッド観賞前「確かにカナシミは必要ないのかも?」と思っていました。だって思いっきりマイナスの感情じゃないですか。予告編を見ていても、「ヨロコビだけいたら幸せだよね」って思っちゃいます。

ですが、そうではない、という事が分かります。マルの思っていた前提とは違ったのですが、インサイドヘッドの中ではカナシミの役割について表現されています。

マルの思っていた前提、というのは「カナシミがいないというのはカナシミがゼロの状態」という事です。そもそもカナシミという感情が欠落している状態。でもインサイドヘッドの世界では、そうではありませんでした。インサイドヘッドの世界では「カナシミはある。それを表現するかどうか」という前提で、問題提起がされていました。

つまり、「すでにどうしようもなく頭の中に存在しているカナシミを表に出す事の必要性」について語られています。マルが思っていたのは非人間的な前提であって、インサイドヘッドの中では各感情は「各感情を表に出す役割」を果たしています。各感情はライリーの頭の中で「感情のコントロールパネル」を操作する事で「感情を表に出す」のです。つまり、各感情がライリーの頭の中で役割を果たさなくても、知らない間にライリーの心の中にはその感情が溜まって行くのです。

そう考えると、カナシミの役割が分かってくるのではないでしょうか?

カナシミは何故必要か?

以下にインサイドヘッドの中で表現された「カナシミの必要性」について書いてみます。ただし、インサイドヘッドの中ではこれらの事について、直接的な明言はありません。そう読み取れる表現があるだけなので、受け取る人によっては解釈が違うと思います。その点はご了承下さい。
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カナシミはSOSである

結論として、カナシミの役割はSOSである、という事です。カナシミは外に表現をしなくても、心の内に溜まって行きます(インサイドヘッドではそういう前提)。つまり、カナシミを押さえ込んでいる、我慢している状態なのです。そうなると、一体心はどうなってしまうのでしょうか?

カナシミを押さえつけると、心が壊れてしまう

カナシミを押さえつける事で、心は壊れてしまいます。インサイドヘッドの作中では、ヨロコビがカナシミの事を「この輪から出ないでね」と行動を制限するシーンがあります。これはカナシミを無理に押さえつける事を表現しています。誰しも心当たりがあるところかも知れません。

その結果、どの様な事が起きるでしょうか?カナシミは、暴走を始めるのです。カナシミは知らないうちに、ライリーの頭の中でおかしな行動を始めるのです。「輪」の中から勝手に動き出して、感情のコントロールパネルのあちこちを触り始めます。

「カナシミ、なにやってるの??!」

「ごめん。わたしにも分からないのよ」

カナシミは自分で自分が制御できなくなります。その結果として、ヨロコビとカナシミがライリーの頭の中から消えてしまいます。するとライリーは、ムカムカしたり、ビクビクしたり、イカリに震えてみたり、とても不安定な感情に包まれます。前述の通り、「感情のスイッチを押す役割のヨロコビとカナシミ」がいなくなっただけで、それぞれの感情はライリーの心の中に不自然に溜まって行く状態になります。

以上の様に、カナシミを押さえつける事で、カナシミは暴走を始めました。では、カナシミを押さえつけず、表現する事でどの様な効果があるのでしょうか?

カナシミを表現する事で、人は支え合う事が出来る

作中で、ビンボンというキャラクターが出てきます。そのビンボンが、とても落ち込んでしまうシーンがあります。とてもとても落ち込んで、座り込んだまま、目もうつろで立ち上がる事すら出来ないほどです。

そのシーンでは、まずはヨロコビがビンボンを励まします。

「大丈夫だよ!元気出して!」

ですが、ビンボンは何も反応しません。ヨロコビが途方に暮れていると、今度はカナシミがビンボンの隣に行きます。

「分かるよ。悲しいよね」

カナシミはビンボンの事を抱きしめました。2人でしばらくの間、抱き合います。するとビンボンは、立ち直る事が出来たのです。

「カナシミ、ビンボンに一体なにをしたの?」

その様子を見ていたヨロコビは不思議に思ってそう聞きましたが、カナシミには自分でそれが分かりませんでした。後述しますが、これも大事なポイントです。

作品の最後では、ライリーがお父さんとお母さんに自分の素直な気持ちと打ち明けます。するとお父さんとお母さんは、ライリーの事を理解し、抱きしめます。作中でずっと壊れていたライリーの心が、ここで取り戻されました。

カナシミを表現する事で、周りの人たちはそれを支えてくれようとします。人は1人では生きていけません。自分の辛い気持ちを、分かってくれる人が必ずいるはずです。まれに、もしかしたらいないかもしれません。でも自分の素直な感情をどこかで表現しておくということは、とても大事な事なのです。

カナシミだけでなく、感情を表現するということは、すべての人間に必要な、人間を人間らしくする為の唯一の方法なのだと思います。感情を抑えつけ(過ぎ)てはいけないのです。

カナシミはいつも自己否定をしている

カナシミは作中で、いつも自己否定をしています。どうやら、自分の事が好きではないみたいです。いつも、ヨロコビたちに謝っています。自分なんか、消えてなくなってしまえとまで思っています。ビンボンを立ち直らせた時も、まさか自分にそんな力があるなんて思ってもいないのです。

これは私たちでも同じなんだと思います。カナシミを負の感情として悪いものとして扱っています。出来たら押さえつけた方がいいと思っています。マルも最初に感じていた感覚として「カナシミがない方が人生楽しい」と思っていました。でも、恐らくそうではないと言うことがこの作品を観て分かりました。

マルはインサイドヘッドを観た帰りにカナシミの人形を買ってしまいました。それくらいに、この作品を観るとカナシミの事が好きになります。カナシミという感情が大好き、というのもおかしいかも知れませんが、時にカナシミは重要な感情であると、全否定しない気持ちが重要なのかも知れません。

逆にヨロコビは、自分の事を何の疑いもなく肯定している様に見えます。ポジティブだったらすべてがうまく行く、と言いたげです。ですが、人間そうは単純に行かない、と言うことです。ポジティブシンキング、なんていうのは、そこのバランスをとってうまくやらないと大変なしっぺ返しがあるのかも知れませんね。