東京ディズニーランドって、実は建設中にすごく興味深いエピソードがたくさんあったんです!
みなさんは普段パークで楽しんでいるとき、この場所がどんな風に作られたのか考えたことはありますか?
実は建設当時、予算が大幅にオーバーしたり、図面が合わないという大変な問題が次々と起こっていたと言われています。
でも、そんな困難を乗り越えて今の素晴らしいパークができあがりました。
今回は、そんな建設時の驚きの秘話を調べてみました!
予算が1000億円から1800億円に膨らんだのはなぜ?
東京ディズニーランドの建設は、当初1000億円程度の予算で計画されていたとされています。
しかし、工事が進むにつれて予算はどんどん増えていき、最終的には約1800億円程度になったと言われています。
この予算オーバーには、オリエンタルランドの髙橋社長の強いこだわりが関係していたようです。
工事責任者に対して「お金はかかっても良いから良いものを、1983年4月には開園できるように」という2点を明確に伝えていたとされています。
さらに「妥協はするな。本物を造れ」という号令のもと、スタッフはディズニー社と一体となって全エネルギーをパーク建設に注ぎ込んだと言われています。
この姿勢があったからこそ、開業後40年以上経った現在でも色あせることのない、誇るべきテーマパークが完成したというわけですね。
当時としては破格の投資でしたが、今振り返ってみると正しい判断だったといえるかもしれません。
アメリカの図面と実際のパークが違っていた問題とは?
建設中に発生した大きな問題のひとつが、図面と実際のアメリカのディズニーパークとの不一致だったと言われています。
これは、アメリカのディズニー社側にあった図面に、アメリカ版パーク建設中の急な変更が完全に反映されていなかったことが原因だったようです。
この問題を解決するため、日本側のスタッフは何度もアメリカに赴いて、実際のパークを詳しく測定する作業を行ったとされています。
オリジナルであるアメリカのディズニーパークをより忠実に日本版に再現するため、現地での実測をもとに新たな設計図面を起こし直していったと言われています。
想像してみてください。
完成したパークを細かく測って、それを日本の建設現場に反映させる作業がどれほど大変だったか。
でも、この地道な努力があったからこそ、本場と同じクオリティのパークを日本に作ることができたのかもしれませんね。
3000名のキャスト採用はなぜ困難を極めたの?
パークの運営には欠かせないキャストの採用も、予想以上に大変な作業だったようです。
1982年に「東京ディズニーランド雇用センター」を開設し、3000名規模のパートタイム・アルバイト勤務のキャストを募集する必要があったとされています。
当時の困難さには、いくつかの理由があったと言われています。
まず大規模採用という点で、一度に大勢の人を雇う必要がありました。
さらに、当時はまだ舞浜までの通勤交通手段が少なく、アクセスの悪さが要員確保を困難にしていたようです。
実際に採用活動が軌道に乗ったのは、東京ディズニーランドの開業半年後を過ぎた頃になってからだったとされています。
開業前から大変な苦労があったんですね。
今では多くの人が憧れるキャストという仕事ですが、最初の頃は人集めに相当苦労していたというのは意外な事実かもしれません。
建設工事の裏側では職人たちの熱い競争があった?
建設工事は複数の大手建設会社によって分担されたと言われています。
一工区は鹿島、二工区は清水建設、三工区は大成建設などが担当し、各ゼネコンは「名誉にかけた意気込みで競い合った」と記録されているようです。
1981年1月3日の朝、建設予定地で鍬入れ式が行われ、本格的な工事がスタートしました。
着工式から2年4ヶ月という期間で建設工事は完了し、1983年3月の竣工式を迎えることができたとされています。
この短期間での完成は、各建設会社の職人たちが誇りをかけて取り組んだ結果でもあったのかもしれません。
日本初のディズニーパーク建設という歴史的なプロジェクトに関わることができる喜びと責任感が、工事現場の熱気を高めていたに違いありません。
夢の国を支えた人々の情熱が今も輝いている
東京ディズニーランドの建設秘話を調べてみると、本当にたくさんの人の努力と情熱が詰まっていることがわかりました。
予算が大幅に超過しても品質を妥協しなかった経営陣、図面の不一致を解決するために何度もアメリカに足を運んだスタッフ、キャスト採用に奔走した担当者、そして名誉をかけて工事に取り組んだ職人たち。
これらの秘話を知ると、パークで過ごす時間がより特別なものに感じられますね。
40年以上前の建設当時から受け継がれてきた「本物を造る」精神が、今でも東京ディズニーランドの魅力の源になっているんだなと思います。